「勉強ってほんとに絶対必要なの?」学校に来られなくなったあの子を見て感じたこと
学校が伝えてしまっている潜在的カリキュラム(ヒドゥンカリキュラム)
「勉強ができなくてもいい」という学校のきれいごと
「勉強ができなくても、得意なことがあればそれでいいんだよ。」
「みんなちがって、みんないい、だよね!」
学校では、道徳の時間や普段の生活の中で
そんな温かいメッセージを子どもたちに伝えます。
もちろん、わたしもその一人でした。
走るのが得意な子。
笑わせるのが得意な子。
たくさんの個性が集まる教室で
それぞれが輝き、みんなで成長するクラス。
それがわたしの理想でした。
でも、その一方で全国学力調査
いわゆる学力テストが毎年実施され
点数がつけられ、どこが苦手か確かめ
苦手を克服するよう学習指導が入ります。
それ以外にも、定期的に
力が定着しているかをはかるための
テストやミニテストが実施され
容赦なく一人ひとりに点数がついていきます。
口では「違っていい」と言いながら
システムでは容赦なく点数で評価されていく。
わたしは「できるようにしてあげたい!」と
一人ひとり取りこぼさないよう授業をする一方で
この「建前」と「本音」の矛盾に
ずっともやもやとした違和感を抱えていました。
二人でがんばった日々とあの子が見せてくれた輝きその違和感が決定的な「疑問」に変わったのは、ある子との出会いでした。
その子は、もともと勉強があまり得意ではありませんでした。
漢字がなかなか覚えられなかったり、筆算ができなかったり。
わたしは、授業の中でできるだけ個別に支援したり
放課後に少しだけ残って一緒に勉強をしたり
宿題はその子に合わせた量や内容にしたり
できる限りの手を尽くしました。
その子も意欲があり、一生懸命な子だったので
前向きに健気にがんばりました。
できるようになったときは、二人でハイタッチして喜びました。

でも…その場でできるようになるものの
時間が経つとまたできなくなる…。
あんなに頑張っているのに、結果につながらない…。
そんな日が続くと、当然毎日の授業に出ること自体が苦痛になっていき
周りの目が怖くなり、自信を失い
とうとうほとんど学校に来なくなりました…。
一つ空いたランドセルのロッカーを眺めながら
わたしは激しい矛盾と、自分への問いに襲われました。
「そこまでして、勉強って絶対にできないといけないの??」言葉にしないメッセージ 潜在的(ヒドゥン)カリキュラムによる犠牲
勉強は苦手だったけど、とても思いやりのある子だった。 ちょっと暗い表情の子がいたら、すかさず近寄って 顔をのぞきこみながら「どうしたの?」と声をかけていた。 「いつも友達に優しい声をかけてて素敵だね。」 そのよさをどれだけ言葉で伝えても 勉強というものさしばかりが強調される学校で どれだけあの子の心に残ったのだろうか…。
本当に大切なことは
学校という狭い箱から一歩外に出れば
本当に大切なのは「テストの点数」ではありません。
周りの人への思いやりをもてること。
自分の気持ちを伝えて
人の話を受容的に聞いて
心地よいコミュニケーションがとれること。
人と調和をもって
支えあって生きていけること。
それさえできれば、人は十分に幸福に生きていける。
だけど、なぜ学校は勉強というものさしだけで
子どもたちをここまで追い込んでしまうのでしょう。
今、もし学校の評価や勉強ができなくて苦しんでいる子 そして、それを見守る保護者の方がいるなら伝えたい。 あなたは、テストの点数なんかじゃ絶対にはかれない。 あなたは、もう十分すばらしい輝きをもっているんだよ。と。


こんばんは!
優しい文章、挿絵のハイタッチ…
素敵な人なのが伝わってきました🫶
これから
宜しくお願いします☺️