「誰もわたしの話を聞いてくれなかった。」
だからあなたの「本当はね…」を、引き出したい
以前「けんかの仲裁、しなくていい」の記事で
けんかの仲裁では
「どっちが悪いか」ではなく、
裁くことをするでもなく
「本当はどうしたかったの?」
を聞いて、
本音を引き出して伝え合えるようにすることが
大切だと書きました。
いじめ記事では
コミュニケーションの機会を増やすことで
人間関係をよくすることができる
ということも書きました。
書きながら
「わたしって、どうしてこんなに
コミュニケーションのことばかり
取り上げてるのかな…
なんでこんなに
気になるんだろう…」
と、思い
なぜだろう、と自分の中を見つめてみました。
すると、
過去の嫌だった経験に突き当たりました。
子どもの頃、
わたしは兄とよく喧嘩をしていました。
結構激しい言葉でののしられていました。
兄の方が口が立つので、
絶対に言い負かされます。
悔しいし、悲しいし、
母に訴えに行きます。
でも
泣きながら母に事情を話すと、
返ってくるのは
「でも、あなたも言い返したんでしょ。」
「お兄ちゃんだけが悪いわけじゃない。」
そんな言葉でした。
母は公平にしていたんだと思います。
でも、当時のわたしは
裁判官のように裁いてほしかったんじゃありませんでした。
いとこ(男)と喧嘩した時もそうでした。
おばあちゃんに仲間外れにされたと伝えたら
「女の子なんだから我慢しなさい。」
「それくらい仕方ないでしょ。」
そう言われて終わり。
誰も
わたしの気持ちを受けとめてくれない。
わたしの話をまともに
聞いてくれませんでした。
納得いかない気持ちを抱え
「もう誰に相談したって無駄。
誰もわたしの気持ちなんて
わかってくれない。」
そんな思い込み・価値観を
自分につくっていたのだと
後から気づきました。
寄り添ってもらえない子ども時代を過ごした。
だから私は、
子どものケンカや癇癪が起きるたびに
この子は、
何を分かってほしいんだろう。
本当は、
何て伝えたいんだろう。
そう考えることが
自然なことになったのかもしれません。
怒りの奥には、
必ず願いがあります。
「一緒に遊びたかった。」
「仲良くしたかった。」
「嫌だった。」
「分かってほしかった。」
その願いが言葉にならないまま、
怒りや癇癪となって表れているんだと思っています。
だから私は先生になってから、
子どもたちがけんかをすると、
すぐに
「どっちが悪い?」
とは聞かず、まずは、
一人ひとりの話を聞きました。
本当はどうしたかったのか。
どんな気持ちだったのか。
言葉にならない願いを
一緒に探していく。
そうすると、
「そういうことだったの?」
と、
子どもたちの表情が
少しずつ変わっていく瞬間がありました。
今、私は
コミュニケーションの記事をたくさん書いています。
けんかの仲裁の話も、
いじめの話も。
アサーションの話も。
その根っこには、
ずっと同じわたしの願いがありました。
子どもにも、大人にも、
「本当はね。」
と言える場所が増えてほしい。
自分の気持ちも、
相手の気持ちも大切にできる人が増えてほしい。
だから私は、
これからもコミュニケーションについて書きます。
「分かってもらえなかった。」
という人を、
少しでも減らしたいと願っているからです。
そうしながら、
一方で
思いを受けとめてもらえなかった
過去の自分を救っているのかもしれません。


NAMIさん、こんにちは。
コミュニケーションを大切にするのは内省の結果もあったんですね。記事を書くことが自分の癒しになっているのは、私も同じかも知れませんね。